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いっぷく! ※そつろん5
「宇崎,俺……この論文を読み終えたら……けっ」
 暖房が効きすぎて乾燥してきたので窓をあけましょう,そう原咲が言ったため,冬真っただ中だと言うのに,みずこうの窓は開け放たれていた.先ほどまで暖房で温められた,ぬるくて不衛生さを感じる空気が充満していた室内は,今は肌を刺すような冷たい新鮮な空気に満たされている.
「結婚するなんてわかりやすい死亡フラグ言ってもおもしろくないですよ?」
 香川先輩はみずこう唯一の大学院生であり,研究内容は「水路の粗度係数推定手法」に関してである.水路というものは戦後復興期に集中的に整備されたものがほとんどであり,主にコンクリート製である.水路の目的はもちろん,水を運ぶことである.しかし,コンクリートの劣化や富栄養化に伴う水草の大量発生により,期待値よりも少ない量の水しか運べていない現状が今の農業農村地域における水路が抱える問題となっている.そんな水路の壁面,および底面の粗さの係数を計測し,そこから現在の状態から期待出来る水量を推測しよう,というのが先輩の研究内容の一部だったと思う.香川先輩は今,その水路の流量と粗さの関係を計算で表してみた,といった内容の論文を読んでいる.数式と言うのは本当にやっかいなもので,論文にひとつでも数式が垣間見えると一気にその論文を読む気力を失ってしまう.現に僕も,先ほど先輩に少しその論文を見せていただいたが,一向にページを進めることが出来なかった.
 そんなとんでも論文を大人しく読んでいた先輩がありがちなボケを言おうとしたところを,僕は事前につっこみ止める.
「けっこう高級なお姉ちゃんのいる店に行く!」
 が,この先輩にそういったテンプレートはまったく通用しないことを忘れていた.よりによって下ネタを選択してくるなんて.
「そうとう疲れていらっしゃるのですね」
「まあ,こんな数式とにらめっこして楽しい気分になれるヤツは変態か,ルカ・パチョーリくらいだな,……んっ」
 昼間っから夜のお店へと想い馳せる先輩はパソコンのディスプレイから目を離し,両手を頭の後ろで組んで上に大きく伸びをする.
 僕も先輩のその気持ちよさそうな仕草に誘われるように伸びをする.2人そろって大きく背伸びをした.にゅいーん.
「んっ……,確かにそうですね,数式に興奮する奴はルカ・パチョーリか,ポンスレくらいですね」
 すると僕たち2人の背伸びによって緊張感が切れてしまったようで原咲も立ち上がり背伸びをすると「ねえ,もう閉めていいよね?」と窓を閉め始めた.僕たちも自分の机の近くの窓を閉める.そして多田が立ち上がり,暖房のスイッチを入れた.ファンが回る音が響き,少し経つと温かい空気が送られてくる.すぐに,またぬるい空気がこの部屋を包み込むのだろう.
「先輩,数式と戦ってたんですか? お疲れ様ですね.そんなことして楽しめるのはルカ・パチョーリか,パウル・ギュルダンくらいですよ」
 多田が自分の席に戻りながらそう言うと,ギュルダーンと椅子を回転させて,座る.多田のパソコンの画面には相変わらずスパイダ・ソリティアが表示されている.おまえ,そんなにすることがないのか.
「そうだな,多田.俺ももう少しルカ・パチョーリやジョン・G・トンプソンを見習って数式と戦ってみるよ」
 香川先輩はゆっくりとした手つきでパソコンのディスプレイの淵をなぞると,どこか遠いところを見ながら,懐かしい戦友の事を想う表情を見せてそう呟いた.
「私,絶対にあなた達とは山手線ゲームをしないと,いま誓ったわ」
「会計の父は,基本だろ?」
 ひとり冷たい瞳でこちらを見ている原咲は,僕の言葉を聞くと静かに首を振る.
「認めなさい,ただルパ・カチョーリの語感がいいから言いたいだけなのでしょう?」
「原ちゃん,ルカ・パチョーリだよ」
「なっ,ルパ・カチョー,ル,ルパカ……」
 僕たちの言動へつっこむつもりが,先輩につっこみを入れられるという屈辱を受けた原咲は言い直そうとして,会計の父のドツボにはまってしまったようだった.顔を赤くして,わかりやすく照れると,冷静になった振りをして席につき,パソコンの作業に戻る.絶対にルカ・パチョーリを調べているのだろう.香川先輩は少し満足そうな顔をしていた.

「おい,一服しにいこうよ,宇崎」
 先輩が煙草を吸う仕草をしながら声をかけてくる.僕は普段から煙草を吸うわけではない,でもやっぱり卒論に追われ精神的に余裕がなくなってくるとそういった嗜好品は欲しくなってくるものだ.だからこんな風に先輩に声をかけてもらって,時折先輩のものを貰っている.いつか,自分で買うべきなのだろうけれどもそのあたり良い子ぶりたい僕には踏ん切りがつかないでいた.
「はい,行きましょう」
 僕たちは研究室を出て,非常階段に向かう.本来ならば喫煙所で吸うべきなのだろうけれど,みずこうのある棟から喫煙所は遠く,面倒なためいつも非常階段で吸っている.
 廊下から扉を開けて非常階段へ出る.下を見ると,授業を終えて帰宅するために駐車場へ向かっている下回生の姿が見えた.お前たちは授業が終われば帰れていいな.研究室とは違って,授業があれば来て,なければ来なくていい.分かりやすい学生生活だ.自分にもそんな頃があったのだが今となってはただ羨ましい限りである.
「ほれ」
 先輩もそんな風に思うことはあるのだろうか.いや,大学院に進学したということは,学ぶ意識が少なからずあるからなのだろう.自分学びたいことを,テストやわかりやすい数字で決定する成績ではない,どこまでも続く研究というものをやっていきたい,と考えたからなのだろう.今さらもう,学部生時代を羨むことなんてきっと,ないのだろう.
「ありがとうございます」
 先輩が手渡してくれた白い棒状のそれを受け取る.僕は右手の人差し指と中指の間にそれを挟んだ.少し慣れてきた手つきで,先につけ,口に咥えると一気に吸い込む.
 のどに滑り込むように入ってくる,白いそれは適度なのど越しと,歯ごたえがあった.すとん,と胃の中に落ちるとほんの少しだけ,満たされた気分になる.
「って,これ,うどんだよ!!」
 細長いうどんを,先輩も慣れた手つきで,手に取るとつゆにつけて咥えて,吸い込んだ.
「ほんとだ! これ煙草って思ってたらうどんだったー」


 信じられないくらいの演技力で先輩はそう叫ぶ.そして,一緒に僕も叫ぶ,せーの「そつろん!」
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【2012/01/22 03:38】 | そつろん! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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